がーさーの日記

楽しい楽しいやりくり

嵯峨、映画「冷たい熱帯魚」を見るの巻

 財布には小銭しかなかった。インターネットを使えば合法的かつ容易に映画などの映像作品が見られる時代、その時代に置いてきぼりにされた財布をもつ僕は近くのレンタルビデオ屋に行き、映画「冷たい熱帯魚」を借りた。

 「冷たい熱帯魚」とは、2010年に公開された日本映画だ。監督は園子温、主演は吹越満。一応、ホラーに分類されるらしい。1993年に実際に起こった事件、「埼玉愛犬家連続殺人事件」をベースにしたフィクションである。殺人方法や死体の処理方法など随所に実際に行われた手法が用いられている。映画を見ればわかるが、このような手法が生の人間ができるとは到底思えないのだが本当にあったのだから、文字通り「現実というものは映画顔負けの恐ろしさ」がある。

 僕が「冷たい熱帯魚」を見るのはこれで4回目だ。1回目は実家の居間で家族と(決して家族と見るような映画ではない。)、2回目はその後一人で、3回目は一人暮らしの部屋、そして今日4回目を見た。元々、クライム映画が好きな僕にとっては非常に好きな映画だ。なぜまた見ようと思ったのかというと、9月にNetflix限定映画「愛なき森で叫べ」が、同じく園子温監督で上映(というのだろうか)されると聞いたからだ。こちらも実際に起こった事件、「北九州監禁殺人事件」をベースにしてるらしい。是非見たいと思ったのと同時に「冷たい熱帯魚」を思い出した。ちなみに「冷たい熱帯魚」も「愛なき森で叫べ」も劇中で起こる犯罪の主犯の名前は、「村田」だ。偶然なのか、いや偶然じゃないとするならば監督は「村田」に恨みでももっているのか(ベースとなった事件の主犯は両者どちらも「村田」という名前ではない)。

 タイトルの映画の話に戻そう。この映画はとにかく面白い。何度見ても面白い。「冷たい熱帯魚」という「冷」と「熱」という対比を含んだタイトルの通り、「理想」と「現実」という対比が明確にある。「プラネタリウムで見る滑らかな球体の地球」に現実逃避を試みる主人公・社本に対して、「実際の地球はゴツゴツした岩石だ」と理想を打ち砕く主犯・村田。暗い現実に目を背けて来た行いにより、さらに過酷な現実を見なければならなくなるのはなんという皮肉。クライマックスは本当に心臓が縮み上がる。

 役者の演技もすごい。主犯・村田を演じるでんでんは特にすごい(実際の事件の犯人、関根元に顔が似てるのだが)。僕は「あまちゃん」先に見ていたので、でんでんのイメージは「あまちゃん」だった。最初の方「あまちゃん」のテンションで演技が行われるのだが、その豹変っぷりにさらに豹変した延長線上にあるコミカルな動きに思わず笑ってしまう。恐い(ちなみに主演の吹越満も「あまちゃん」に出てる)。この映画を「あまちゃん」のアキが見たら、泡吹いて倒れてしまうんじゃないか。

 特に僕が好きなのは冒頭の家族の食事シーン。食事って基本的に有機物を食べると思うのだが、劇中に出てくる料理は無機物にしか見えない。家族でちゃんと食ってるのにまずそう、家族みんなで食べればいいというわけではないんだなと。

 グロテスク描写、吐瀉物、セックス、レイプや逆レイプ、このいずれもがしっかり出てくる映画なので人に勧めるような映画ではないのだが、是非見ていただきたい。  

 Netflixに入るか真剣に検討した一日であった。

 

 就活が解禁となり、いよいよ僕もその波に呑まれた。ESというものを本格的に書き始めた。

 特に強く志望している会社もなく、社会に出たらやりたいこともない僕にとっては嘘をついてなんとなくそれっぽいことを書くしない。罪悪感もなくパソコンの前で淡々と嘘を書いている。よっぽどこのブログを書いてる時の方が自分と向き合って書いてると思う・・・というと大げさなのだが。

 そんなことは誰にとっても当たり前であり、多かれ少なかれみんな嘘をつく。ESを見る側も見られる側だったのだからそんなことはわかっていて、わざわざ「こいつは嘘をついてる」など嘘を見破ることに労力を使わないと就活が始まった今でも思う。

 そういえば小学生のころ、夏休みの日記の宿題をためて31日に思い出して書いた気がする。過去の自分を振り返り、そのとき何を思ったか何を感じたかなんて思い出せない。窮地に陥った少年は嘘の夏休みを過ごしたことにした。

 ESを書いてる時も同じな気がする。エピソードを自己PRかなんかに盛り込もうとしてもその時にどう思ったか感じたか行動したかなんて覚えてるはずがない。8月31日に夏休みの出来事を思い出せないのだから。

 真面目な小学生の夏休みの宿題のように日頃から日記をつけてればよかったのだが、まあそんなもん続けられるなら就活なんてそもそも苦労しない。

 ここにきて夏休みの宿題の経験が活きてくるわけだが、結局気をつけるのは嘘にしてもなんにしても何を言ってるのかわかるようにはしたいな程度だった。企業もそこを見てると思ってる・・・というより思いたい。

 となってるくると、ESもこのブログも本質的には変わらないわけで、是非是非ブログの感想をお待ちしております。

死に至る病

2019年が始まり早5日が経とうとしている。今日から研究室が始まる。

朝起きるとカーテンから差し込む、冬の気温と対照的な暖かそうな日光を発見した。なぜこんなに天気がいい日に研究室という絶望的に暗い閉鎖的、まるで牢獄のようなところへ向かわないといけないのかという疑問に駆られた。

年末年始、僕は実家には帰らずかといって誰とも遊ぶでもなく一人この中央林間にあるアパートの一室に閉じこもっていた。本を読んだりラジオを聞いたりと振り返ってみれば暗い生活を送っていた。

思えばこの2019年、12月31日から1月1日にかけての深夜こそ研究室の先輩と飲んでいたが、それ以降誰とも話していないことに気づいた。普通、声が出るか怪しくなるところだが僕は独り言が激しいのでそれについては何も心配がなかった。

しかし、おそらく人と話すのは億劫になっているだろうなということは思う。この冬休み、暗い生活の中で見つけたことは一人暮らしの楽しさであった。

本当に「暇」というのがここまで楽しかったのか、と気付かされた。何時に寝て何時に起きても何時に食っても何してようが本当に自由で楽しかった。

その楽しさを知ってしまった故にいつもと同じはずの研究室が今日は絶望の地へと豹変してしまった。ああ行きたくない。

ジャパニーズ・シー・フード・ピザ

 修士1年生となり早4ヵ月、研究室生活も去年に比べ大分体に馴染んできた。

 去年に比べますます研究室は金がなくなり、テーマがなくなりいよいよ残すのは「ブラック」という形容詞のみである。前まであったブラック「だけれども」〜とかはもうない。ただ単に本当に「ブラック」なだけの研究室となってしまった。この研究室に希望や未来はあるのか。

 研究室の財政情報や論文情報など色々わかり始めて、更に自分の研究室が上述したような状況に置かれると、「では隣の研究室はどうなのか」とか「あの先生の研究室はどうなのか」などが気になってくる。そんなもんは簡単に調べられて、調べると流石東工大と言うだけあってだいたいどこの研究室も金があったり論文がたくさん出てる。

 「となりの芝生は青い」などということわざがある。自分に関する何かよりも他者に関する何かの方がすごく見えるという人間が抱く主観的感想を比喩したものだ。しかし、研究室に関しては主観ではなく客観的な数値で評価できる。金額は多ければ多いほどいいというのに反論する者はいないだろうし、論文の数やインパクトファクターが高い方がいいというのもいわずもがな。

 だからあえてネガティブキャンペーンなどしなくても、研究室を決めようとしている学部生はインターネットを活用しこの手のことを調べ、うちが他よりも劣悪であることを察知し来ないのだ。当たり前だ。そして研究室は人数が少なくなっていき衰退していく。これも当然なのだ。

 論文を書いたり、科研費をとってくるというのは研究室のスタッフ陣が学生に対する最低限の責任である。学生が手を動かし、研究をしている。それに金とアイデアを与え、論文として形にする。このようなビジョンが何も見えない弊研究室は学生が来ないどころか研究室にいる人々の士気までも下げるという結果になってる。

 が、ここではあえて研究室のいいところをあげてみようと思う。自分を鼓舞するというのもあるし、さらに他人事のように上では書いたが学生が来ないと言うのは僕の仕事が増えるというのもある。実際学生にはうちに来て欲しい、無責任だが。

 

四六時中誰か研究室にいる

これはブラック研究室のあるあるで、だいたいの時間だれかしら研究室にいる。ふと実験したくなったり、涼みにいきたいなと思って研究室に行くと誰かしらいる。安心安全だ。特に僕みたく研究室の鍵を紛失した人間にとってはありがたい。

 

論文がでない

上で書いた通り、こんなもん普通デメリットである。自分の実績が論文に出た方が、就職学振など様々な場面で有利に働く。が、個人情報保護の観点から言えば安心安全だ。論文に出てしまうと、世界に名前が出てしまう。しかも、どこの大学のどこの研究室のどこの誰かがわかってしまう。危険だ。うちみたく論文が出ないならそんな危険はない。ではなんのために研究してるんだかって話だが。

 

金がない

これも普通デメリットではある。こんなもんメリットになるのかって話なんだが、まあ無理やり言うとすると、なんか「温室で育てられた花よりも崖などの過酷な環境で育った花の方が美しい」みたいなことが書かれた古典があった気がする。

 

どうか参考にして欲しい。

 

タイアード・アンド・オイリー・ヴァージン

 久々に実家へ帰った。と言っても一ヶ月ぶりぐらいだが。

 というより久々に二日以上連続で休んだ気がする。一月は(おそらく)成人の日を休んだのを最後に20日以上連続で研究室に向かった気がする。一月は卒論の実験をやっていたら怒られ、先輩の修論のための実験をしていた。その修論も終わった今、卒論の実験が(何故か)増え、正直休んでる暇は無い。

 が、遂に三連休を丸々休んでしまった。僕の中では少なくとも1日は研究室に行くつもりだった。その計画を破綻させてしまったのは休日の過眠によるものであった。

 起きるのがもう夕方ぐらいなのである。前日徹夜したしてないに関らず、もうその時間にしか起きられない。平日の睡眠が足りて無いのだろうか。これだけ寝ても一週間の疲れは取れることはない。

 さて、日曜は例によって夕方の6時ぐらいに起き、そこから実家に向かった。地元に着く頃には10時ぐらいになっていた。駅前は特に何も変わってなかった。実家から大学に通ってた頃によく使っていた駅にあるコンビニの店員すら変わってなかった。

 家に着くと父親がリビングで寝ていた。相変わらずだった。晩飯を食べながら母親の他愛もない話を聞いた。あの台湾での地震の日、台湾に旅行する予定だった、とか宇野昌磨と小室圭が似てる、だとか。テレビを見ながらほとんど何も考えず会話をしていた。

 しかし、話は段々と家族の話になり、弟が酒で失敗した、とか母親が近々手術する(幸い大したことではないらしいが)だとか。実家に帰ると年をとったことを実感する、家族のエピソードが僕が中学高校だった頃に比べ、ありきたりになってきた。家族が年をとり、いい大人になるとこういった家庭のエピソードはどこの家庭も同じ値に収束する気がする。しかし、「ありきたり」というのは「客観的に聞いて」というのであって、当の家族にとっては一大事になるような内容な気がする。

 まあ何がともあれみんな年をとった。「老人が多いな」と思ったこの地元だったが、いつしか親もその「老人」の仲間入りを果たしつつある。僕も弟が酒で失敗したという話を聞き、自分も年をとったことを認識した。なんとなく物心ついた時から連続であると思われる意識だが、たまにしか会わない人と会うとその連続性の自信を失う。小学校や高校の頃の僕と今の僕は全く別の人間かのように思われる。そんなはずはないからこう人と会うと「年をとった」と認識する。

 なんとなく休日の過眠もそのせいにしてしまいそうだが、今思うとこれは小さい頃から変わってなかった。

第一回研究室選び講座~ブラック研究室から愛をこめて~

 先日(と言ってももう一か月前ぐらいなのだが)、僕の所属する研究室に学部三年生が見学に訪れた。彼は教授や准教授といったスタッフ陣と話し、帰って行った。

 その日、たまたまツイッターを見ていたら先ほど見学に来てた三年生のものと思われるアカウントが下のようなことを呟いていた。

「今日行った研究室就職先は一番いいのに定員割れてて(恐らく学生間で行われている志望調査の結果の話だと思われる)お買い得研究室だと思うよ。」

 これは浅薄な判断と言わざるを得ない。尤も本気で言ってるのかそれとも適当に言っているのかは不明だが、このツイートをその字のまま読めばとても成人した仮にも国立大学に在籍する学生のものとは思えないほど浅はかな考えだ。

 「成績関係なしに入れること」と「就職の良し悪し」を比べて「お買い得」という一見すると論理に矛盾はないようであるが、研究室における重要な論点つまり「研究室の生活」というものを何も考慮せず「お買い得」と言ってしまうのは如何なものだろうか。研究室見学の意味を何も成してないようにも思われる。

 それに「就職がいいからお買い得」とは一体どういうことなのだろう。「生命の中で就職がいい」研究室入ったからと言って自動的にいい就職先が待っているなどと考えるのは大の大学生が考える事ではないのである。言うまでもなく就職は研究室を見ているのではなく個人を見ている。もちろん同じ研究室内なら似た技術を持っているから就職の良し悪しなどは似た傾向になるかもしれない。しかし、傾向を一個人に当てはめることはできないのは言うまでもない話である。結局は企業側は個人を総合して評価し、採用不採用を決めるのである。

 まだまだ言いたいことはあるが、取りあえず今日はここまでにしよう。やはり総合的に考えて

「今日行った研究室就職先は一番いいのに定員割れてて(恐らく学生間で行われている志望調査の結果の話だと思われる)お買い得研究室だと思うよ。」

 このツイートは浅はかと言わざるを得ない。

 4月に研究室配属され、一人暮らしを始めた。研究に対する新学期恒例の不安でいっぱいだった、およそ配属された一か月後にはその不安は現実のものとなってしまったのだが。

 最近は朝起きるのがつらい。汚い部屋に斜めに敷かれた布団から立ち上がることができない。以前まではこんなことはあまりなかったが、いつまで経っても立つ決心がつかず「まだ大丈夫」を繰り返す。結局ギリギリになって急いで立ち上がり急いで歯磨きをし急いで着替え急いで部屋を出る。

 睡眠時間はそれなりに確保できてる。やはり家が学校の近くにあるのはいいものだ。しかし、なかなか起きられなくなってる。

 研究室は10時には入り、実験をする。いい結果など得られない。もうわかってる。それでもやらなければならない、血税の無駄だ、最近先生にもそう言われた、じゃあもういっそクビにしてくれ。そして決して明るい気持ちじゃない状態で夜の10時に帰る。手際が悪いと11時前に研究室を出る。

 部屋に着くのは11時前、遅いと11時半過ぎ、部屋ですることなんて何もなくボーっとしいつの間にか寝てる。

 研究室に入ってわかったことは僕が怠け者だということだけだ。僕は大変なことはしたくないと思っているということだけだ。

 最近PCの調子がよくない。研究室では電源すら入らなかった、が実家に帰りダメ元で点けてみたら電源が入りブログも書ける。まるで僕のようだ。